top of page

サステナブル経営と、30年以上続く異業種交流会

司会・髙橋明美(以下髙橋):第87回経営者対談を始めます。本日のゲストは、株式会社寺田鉄工所・代表取締役社長 寺田雅一様です。どうぞよろしくお願いいたします。

 

株式会社寺田鉄工所は、大正6年(1917年)に鉄骨構造物やボイラーなどを製造する鉄工業会社として創立されました。現在は、自社製品の開発も行い、真空管式太陽熱利用システムや太陽熱調理器などの環境関連製品を開発・販売しています。創業以来100年以上の歴史を持つ企業の経営者として、異業種交流会を立ち上げ、全国の経営者の橋渡しをされています。本日はどのようなお話をお伺いできるのでしょうか。それでは、芳永代表、よろしくお願いいたします。

 

芳永尚(以下芳永):寺田社長にはずっとお声がけしてきて、本日ようやくこの日を迎えました。ありがとうございます。さっそくですが、寺田社長のご経歴と、現在に至るまでをお聞かせください。

 

寺田雅一(以下寺田):ありがとうございます。ご紹介の通り、当社は1917年に創業しました。当初は蒸気機関車の部品や、給水タンク、商店街のアーケードの鉄骨工事などを行っていました。また、尾道から西にある三原市の三菱重工業車両製作所で車両部品を作る取引が始まりました。当時は鉄道輸送が主流で、国鉄の蒸気機関車や貨車、タンク車を専門に製造していました。親会社である三菱重工業と共に成長し、ものづくりの基本を学びました。

 

当時の日本は、護送船団方式といってどこかの会社にぶら下がっていれば右肩上がりの経済成長をする、そんな時代でした。その後、日本国内での製造コストが合わなくなり、タイのバンコクに工場を設立しました。さらに製缶板金業だけでは厳しいと考え、大型機械加工設備を導入し、なかには関西空港を作るためのバカでかい海上杭打機を作ったり、機器の生産から加工まで一貫して行える工場を作りました。最近では、今は半導体関連の機器も製造しております。

 

芳永:寺田社長は、会社に戻られてからどれくらい経ちますか?

 

寺田:27歳のときにサラリーマンを辞めて、家業に戻りました。私は工業大学で経営工学を学び、卒業後は株式会社キーエンスの前身であるリード電機に入社しました。その後、キーエンスが上場したタイミングで退職しましたが、ちょうど父が脳梗塞で倒れ、経営に戻らざるを得なくなりました。実は、キーエンスでは30歳までは働くつもりでしたが、家庭の事情で早期に戻ることになったんです。

 

芳永:そのタイミングで、タイの工場撤退などを手掛けられたのですね。

 

寺田:そうです。私が戻ったとき、まず最初に取り組んだのはマネジメント改革でした。長年の老舗企業で、経営管理がずさんだったため、決算が終わるまで会社が儲かっているかどうかも分からない状態でした。

 

芳永:「サステナブル経営」というテーマについて、寺田社長がこの考えを意識されたのはいつからですか?

 

寺田:2007年に社長に就任した際、経営理念を見直しました。当社が100年以上続いてきた要因は、時代のニーズに合わせたものづくりと、社会課題に対応する仕事をしてきたことです。2007年には、30年先を見据えて地球環境の問題を考え始めました。

ちょうどその年にリーマンショックという世の中の激変が起き、当社の売上の約半分を占めていた液晶テレビやプラズマディスプレイ向けの製造装置「真空蒸着機」がほぼゼロになりました。大幅なリストラをせざるを得ない、そうしないと会社が存続しなくなってしまう。この経験から、単に業界の変化に追随するだけではなく、会社基盤を立て直すことが最優先であると感じました。

 

芳永:製造業において、当時から「サステナブル経営」を意識していた企業は少なかったのではないでしょうか?

 

寺田:そうですね。弊社は「産業文化の発展と地球環境の保護に貢献」と「最小の人と時間で最大の経済効果を得る」の2つの経営理念を掲げています。後者は、キーエンス時代の経営理念を参考にしていますが、当時「サステナブル経営」という言葉はありませんでした。それでも今振り返ると、私たちの経営がまさにサステナブル経営そのものであったと感じています。

自分がサラリーマン時代に、ベンチャーから上場する経験をしたことが一番の成功体験で、そのときの経営理念を当たり前のように仕事に取り入れていたんです。やるべきことが見えていますので、ここを潰してここも潰してと一つずつやってきた、そんな感じです。

 

芳永:若い経営者やこれから起業を考える人たちに向けて、一言いただけますか?

 

寺田:行動することが非常に大事だと思います。失敗してもそれが糧になるので、まずは実行してみることが重要です。思っているだけでは何も始まりません。結果として、自分の成長が実感できるはずです。

 

芳永:寺田社長の口から出てくる言葉は重みがあります。ありがとうございます。

 

髙橋:続いて、異業種交流会についてお話しいただけますか?

 

寺田:異業種交流会は、私が27歳のときに参加した福山商工会議所で後継者を育成するための能力開発学院という勉強会から始まりました。その後、仲間と共に器を指すキャパシティから「キャパ会」と名付けた会を立ち上げ、地域の企業見学や勉強会、マネジメントゲーム、そして夜の部という活動を毎月1回ぐらいのペースで行い、33年間毎月続けています。

 

一同:すごいですね!

 

寺田:先ほどこの対談を92回ぐらいやられているとおっしゃっていましたが、まだまだ「はなたれ小僧だな」と(笑)。

 

(一同笑)

 

最初は福山から始まり、東京、大阪、名古屋、さらには中国の青島や札幌、沖縄にも広がりました。今では、各地で独立して運営されるようになり、私はそのネットワークを支援する形です。

 

髙橋:まさかの中国キャパ会ですか?

 

寺田:そうです。バイオトイレという微生物を使って排泄物を分解するスタンドアローン型のトイレを北京オリンピックに向けて展開しようということで中国に出向いたところ、そこでも中国の商工会議所やら企業さん、政府ともどんどん仲良くなっていって、これ時間がないからみんな集めてやろうと思って(笑)。僕は毎月は無理でしたが、数か月に1回くらい行っていました。

 

キャパ会は仕事のつながりを超えて、人と人とのつながりを大事にしています。あくまで人間関係を築くことを重視している会です。

 

芳永:会の運営が長続きするコツは何でしょうか?

 

寺田:楽しく続けられることが大事です。趣味のように気軽に参加できる環境を作ることで、自然と続いていきます。また、新陳代謝を意識し、幹事を毎月交代させることで新しいメンバーが参加しやすくなります。新陳代謝が起きる大きな理由は、「一見さんお断り」で、来た人がほかの誰かを誘って連れてくる形です。

 

髙橋:続けることの大切さを感じますね。最後に、今後の展開についてお聞かせください。

 

寺田:現在、60歳で70歳で引退を視野に入れ、8代目にバトンを渡す準備をしています。未来の不確実性を見越して、柔軟に対応できる事業を模索し、再生可能エネルギーや環境関連技術の発展に貢献していきたいと思っています。

 

髙橋:異業種交流会の未来については?

 

寺田:私がいなくても回る仕組みを作りたいと考えています。すでに自立した形で運営されているので、私が70歳頃には自然に続いていくと思います。

 

芳永:自分がいなくても回る仕組みを作らなければ永続性は保てませんよね。かつ自己増殖する仕組みを作れたらと思います。

 

寺田:理想的ですね。異業種交流会も、各地のメンバーが自主的に運営し続けることで、サステナブルに成長できると思います。

 

芳永:寺田社長のような仕組み作りを目指して頑張ります。

 

髙橋:お二方、同学年ということで、今後の5年、10年後が楽しみです。本日は本当にありがとうございました。

2023年11月2日収録

bottom of page