幸せを測るものさしとは?
- ncu807
- 9月4日
- 読了時間: 3分
「今日も一日、幸せでした」
夜空に一筋の光が走り抜けるのを見上げながら、そうつぶやいた男がいた。
彼は裸だった。
彼の日常は、狩りをして食料を得、空を見上げて一日の終わりに祈る。その姿は、あるテレビ番組の画面に映し出されていた。
その映像を遠い都会の自宅で眺めていた背広の男が言った。
「未だに狩りをして生きているなんて、なんて野蛮な人たちだ。病気やケガをしても祈るしかできないなんて、なんて不幸な人たちなんだろう」
清潔で快適な部屋に暮らし、病気になれば最新の医療を受けられる背広の男にとって、裸の男の暮らしは「不幸」に映った。
その背広の男の日常を、遠く離れた上空の物体の中からモニター越しに見ていた者がいた。
銀色のスーツに身を包んだ男である。
彼はこう言った。
「未だに争い合い、殺し合うなんて、なんて野蛮な人たちだ。有り余る食料や技術を分かち合えないなんて、なんて不幸な人たちなんだろう」
銀のスーツの男から見れば、地球上の人間は理解しがたいだ。
飢餓で苦しむ人々がいる一方で、大量の食料を廃棄する。最新の技術を兵器に費やし、互いを傷つけ合う。
その姿はまさに「野蛮」であり、「不幸」に見えたのである。
この寓話が示しているのは、「幸せを測るものさしは一つではない」ということだ。
裸の男にとっての幸せは、生きていることそのもの、そして自然から与えられた恵みへの感謝にあった。
背広の男にとっての幸せは、豊かさと快適さ、そして安心できる環境にある。
銀のスーツの男にとっては、争いのない世界こそが幸せだった。
立場が変われば、不幸の基準もまた変わる。
誰かにとっての「不幸」が、別の誰かにとっては「幸せ」なのかもしれない。
私たちは日々、たくさんのものを手に入れようとしている。
便利な道具、新しい情報、人より優れた成果。
そうしたものを積み上げることで幸せになれると信じてきた。
けれども、気づかぬうちに「持ちすぎてしまった」のかもしれない。
あまりに多くを所有するあまり、本当に必要なものが見えなくなってはいないだろうか。
裸の男が空を仰いで「ありがとう」と言ったとき、そこには所有や比較の発想はなかった。
ただ「生きていること」への素直な感謝があった。
現代社会には、貧困や格差、環境問題など、数多くの課題がある。
それを解決しようとする努力は欠かせない。
しかし、その努力の方向は本当に正しいのだろうか。
銀のスーツの男が指摘したように、有り余る食料や技術を分かち合えない社会を、私たちは「文明的」と呼べるのだろうか。
幸せを測るものさしは、所有する量でも、手にした技術の高度さでもない。
むしろ、どれだけ多くのものに感謝できるかが、その人の幸せを決めるのではないだろうか。
私は時として自らのモノサシにも悩んでいる。




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