明日が来るという奇跡について
- ncu807
- 9月12日
- 読了時間: 2分
9.11で、多くの命が突然に奪われた。
3.11では、「日常」という名の尊い火が、あの日の海に呑まれて消えた。
世界では今も、明日が来ると信じて目を閉じた人が、次の日を迎えられないということが起きている。
遠い国の話に思えるが、それは単なる距離の問題ではない。
時間のずれや文化の違いを超えて、私たちは確かに、同じこの地球で呼吸をしているはずだ。
一方で、私のまわりでは、そうした切迫した現実を日々感じる場面は少ない。
食事をし、仕事をし、夜になれば眠るという、ごく当たり前の暮らしが、今日も続いている。
まずは、そのことに感謝したい。
あたりまえに明日が来ること。
何事もなく朝が来て、いつもの景色がそこにあること。
それは決して「保証された日常」ではない。
むしろ、当たり前に思えるほど、それは尊い。
もちろん、日々の生活において、思い通りにいかないこともある。
不安も、苛立ちも、孤独も、人は誰しも抱えている。
ただ、それでもなお「今日を生きている」という事実は、何よりの力であり、希望てある。
ときに、自分の悩みがちっぽけに見えることもある。
世界で起きている悲しみに比べたら——と。
けれど、誰かの痛みと自分の痛みを比べる必要はないと思う。
痛みはいつも、主観であり、その人だけの現実なのだから。
だからこそ、どんな日にも「小さな感謝」を灯していたい。
水が出る。電気がつく。誰かの声が聞こえる。空が見える。
そのどれもが、未来へつながる確かな兆しである。
人は、明日を選ぶことはできない。
けれど、どんな心持ちで今日を終えるかは、選ぶことができる。
そしてそれは、きっと明日をつくる力になる。
思い出すべきことがある日だからこそ、「今」を大切にしながら、「次」に向かう勇気を持ちたい。
祈りとともに、今日という日を結び、明日という日を迎えたい。
この瞬間も、どこかで命が生まれ、失われている。
それでも私たちは、何かを信じながら、生きていく。
あなたは、どんな今日を生きますか?
そして、どんな明日を迎えたいと願いますか?




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