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未来の襟と靴の帽子

  • 執筆者の写真: ncu807
    ncu807
  • 2025年12月23日
  • 読了時間: 3分

映画『エイリアン2』を鑑賞した際、ある細かな描写が脳裏に焼き付いて離れなくなった。劇中に登場する未来の人物が着用している背広の「襟の形」が、現代のそれとは決定的に異なっていたのである。

色も素材も、全体のシルエットも大きくは変わらない。派手さもなければ、目を引くような奇抜さもない。しかし、そのわずかな造形の差異が、「ここは我々の知る現在ではない」という事実を無言で突きつけてくる。作中でその意匠に関する説明は一切ない。ただ、違う。それだけで、観客に未来を感じさせるには十分なのである。

一方、手塚治虫が描く漫画の未来像に目を向ければ、そこにはさらに極端な風景が広がる。人々が靴を帽子のように頭に戴き、平然と街を歩いているのだ。そこには合理的な説明も、社会的背景の描写も存在しない。だが、「未来とは、現在の常識が根底から裏返った世界である」という感覚だけは、強烈な磁力を持って読者の心に残る。

ここには、我々が「未来」を思考する上での極めて重要な本質が隠されている。

通常、ビジネスや日常生活において未来を語るとき、我々はつい技術の進化を軸にしてしまいがちである。どれほど利便性が向上するのか、どれほど効率化が進むのか。どのような革新的デバイスが登場するのか。しかし、優れたSF作品や先見性のある創作が描く未来は、決して機能の延長線上には存在していない。

襟の形がわずかに変容すること。あるいは、帽子として靴を被ること。

これらは技術の進歩を誇示するものではなく、「価値観のズレ」を表現しているのである。「何が普通であり、何が奇妙であるか」という、文化や社会のOSそのものが更新されてしまった世界。それが未来の正体である。

現実の世界も、すでに同じ道を辿り始めている。

AIの台頭、自動化の進展、そして働き方の変容。ここで注視すべきは、テクノロジーという表面的な変化ではなく、それによって引き起こされる「人間の感覚の変化」である。

かつて、特定の組織に属さない働き方は「不安定なもの」と糾弾され、オンライン上の交流は「希薄で不確かなもの」と見なされていた。創作活動においてAIを道具にすることは、人間による「手抜き」であると否定的な視線が向けられた。

しかし、現在の景色はどうだろうか。フリーランスやギグワークは一般的な選択肢となり、オンラインの繋がりから数億円規模の事業が誕生している。今や、AIを業務フローに組み込まないことの方が、むしろ非効率であり、時代錯誤であるとさえ見なされ始めている。

「帽子に靴が乗る瞬間」は、ある日突然、ファンファーレと共に訪れるのではない。

それは、我々の預かり知らぬところで、日常の隙間に静かに、しかし確実に浸食してくる。昨日までの「非常識」が、今日この瞬間に「新常識」へと姿を変える。その連続が未来を形作っていく。

未来を生き抜くための準備とは、単に新しいツールの使い方を習得することではない。

自らの常識が裏返る瞬間を目の当たりにしたとき、それを異物として拒絶するのか、あるいは知的好奇心を持って面白がれるのか。その「態度」こそが、経営者やリーダー、そしてこれからの社会を生きる個人に問われているのである。

背広の襟が変わる程度の小さな違和感の蓄積が、やがて世界を塗り替える。

頭の上に靴を載せて歩く者を見て、「正気の沙汰ではない」と切り捨てるか、あるいは「なるほど、その視点があったか」と受け止めるか。

未来という名の新しい物語は、常にそのわずかな感性の差から始まるのである。



 
 
 

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