物を持たぬことで、見えてくるもの
- ncu807
- 9月16日
- 読了時間: 2分
時計も靴も、車も服も。
気がつけば、こだわってきた記憶がほとんどない。
いわゆる物欲というものが、自分にはあまりないのだ。
何かを手に入れることに熱くなった覚えが、人生でほとんどない。
身につけるものも、乗るものも、住む場所さえも、「こだわりがある」と言えるほどには選んでこなかった。
むしろ、どちらかというと“安物買いの銭失い”である。
高級志向の対極にいる自覚があるし、身の丈に合ったもので十分だと、ずっと思ってきた。
最近になって買ったスマートウォッチが、60年の人生で一番高価な時計である。
それがいくらなのかは、ここでは話したくない。
とはいえ、まったく何も興味がないわけではない。
強いて挙げるなら、「旅」と「飯」には少しだけこだわっている。
といっても、選ぶのはB級グルメばかり。
宿も楽天トラベルで口コミを読み込み、安くて面白そうなところを見つけては出かけている。
名店を制覇したいわけではない。
「これは外したな」と思う旅にも、どこか満足している自分がいる。
きっと、“正解”より“余白”を楽しんでいるのだと思う。
何を選ぶかより、どう味わうか。
どこへ行くかより、何を感じたか。
そういう時間のほうが、ずっと記憶に残るのだ。
そんな生き方をしていると、時々、近しい人たちに言われることがある。
「歳と立場をわきまえろ」と。
「そろそろ、ちゃんとしたモノを持て」と。
もっともな言葉である。
自分でも、「もうちょっと、ちゃんとしようか」と思わないでもない。
それでも、そう言われれば言われるほど、なぜか意固地になってしまうのだ。
年を取った証拠かもしれない。
思えば30代の頃、とある経営者の前でこう言い放ったことがある。
「芳永以上の資格はない。俺は運転免許以外、不要だ!」
当時の勢いもあったと思うが、今でもその言葉は、どこかで握りしめている。
資格も、役職も、肩書きも、きらびやかなモノも――
本当に必要なものは、もっと別のところにある。
そんな信念のようなものが、今も消えずに残っているのだ。
人は年を重ねると、だんだん丸くなるという。
それは穏やかで優しい変化かもしれない。
だが、自分の輪郭だけは、ぼやけさせたくないと思っている。
果たしてそれは、頑固なのか。
それとも、誠実さなのか。
さて今日も悔いと迷いを咀嚼してみたい。




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