空回るときに思い出すこと
- ncu807
- 11月17日
- 読了時間: 2分
杉田玄白、杉田かおる、いや違う。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
そう、やりすぎは、やらなさすぎと同じこと。
この言葉の重みを、身をもって思い知らされた出来事がある。
「ここまで言えば、わかってくれるだろう」
「これだけ丁寧にやったのだから、もう十分伝わっているはずだ」
そう信じて疑わなかった。けれど、現実はまるで違っていた。
ふたを開けてみれば、何も起きていない。
反応もない。成果もない。
むしろ、こちらの意図がどこにも届いていないようにさえ思えた。
怒りと落胆が入り混じる中、私はふらりとビリヤード場に足を運んだ。
「なんで言われた通りにしてくれないんだ!」
「いい加減に契約してくれよ!!」
ひとり声を荒げながら、キューを握る。
苛立ちのまま球を突いた。だが、球はあらぬ方向へ飛び出していく。
キューはかすって妙な音を立て、周囲の視線が痛かった。
怒りに任せて力任せに突いても、何もコントロールできない。
まさに「身もふたもない」とはこのことだと、苦笑するしかなかった。
少しずつ心が落ち着いてくると、自然とキューの動きが滑らかになっていった。
狙いすましたわけでもないのに、球は導線を描くように動き、すうっとポケットに吸い込まれていく。
不思議だった。いや、むしろ当然だったのかもしれない。
そう、要は「塩梅」なのだ。
どれだけ正しくても、どれだけ丁寧でも、度を越せば、それはもう正しさではなくなる。
伝えようとする熱意が強すぎて、相手の受け取る余白を潰してしまっていたのかもしれない。
自分が「これで完璧だ」と思っていた説明も、相手からすれば「押しつけ」に感じたのかもしれない。
過ぎたるは、猶、及ばざるが如し。
だからこそ、力の入れどころ、抜きどころ、その「塩梅」を見極めることが、思いを届ける本当の鍵なのだろう。
あのときのビリヤード台に向かう自分を思い出すたびに、今の自分の姿を、ふと顧みる。
今、力を入れすぎていないだろうか?
逆に、引きすぎていないだろうか?
何ごとも、塩梅次第。
その感覚を大切に、今日もまた、一球一球を静かに見つめながら進んでいきたいと思う。




コメント