綴ること、それは祈りのように
- ncu807
- 10月5日
- 読了時間: 2分
書くことは、癒しであり、祈りである。
そんな言葉が、ふと心に浮かんだ。
言葉にすることで、感情がすっと落ち着く瞬間がある。
それは、誰かに届けようとするよりも、むしろ自分自身を整えるための、静かな儀式のようなものだ。
気づけば1999年から、さまざまな媒体でブログを書き続けてきた。
Ameba、note、自社サイト……形は変われど、書くという行為の本質は変わらなかった。
自分の想いや葛藤を言葉にすることは、「なぜ自分はこの道を歩んでいるのか?」という問いに向き合う時間でもあった。
書くことで考え、考えることで気づき、気づくことで動く。
そして、動いたことでまた新たな問いが生まれ、それを言葉にする。
そんな循環が、いつの間にか私の日常となっていた。
だが、常に順調だったわけではない。
うまく書けないときもあったし、書いた言葉と実際の行動とのギャップに悩むこともあった。
「言っていること」と「やっていること」が一致しない。
そんな自責の念に苛まれ、書くこと自体から遠ざかりたくなる日もあった。
それでも、なぜ私は書き続けてこれたのだろうか。
今、振り返ってみて思うのは、書くことが自分を支えてくれていた、という事実だ。
誰にも言えない本音や、まだ言葉になりきらない感情を、ノートに、画面に、そっと置く。
そうすることで、自分の内側にある“揺らぎ”が、少しずつ輪郭を持ち、静まっていく。
それは、他者のためというより、自分自身を赦すための時間だったのかもしれない。
経営者として、人を育てる立場にあっても、私自身が常に学びの途中である。
だからこそ、言葉にする。
足りなさも、迷いも、進み方も、すべてひっくるめて。
「こうありたい」と願う姿と、「いま、ここにいる自分」との間にある距離を、言葉によって埋めようとしているのかもしれない。
そしてまた、書くことで未来が少しだけ見える気がする。
今はまだはっきりとは言えないことでも、書くうちに輪郭が生まれる。
言葉は、まだ見ぬ自分を呼び寄せる小さな灯りのようでもある。
だから今日も、静かに、言葉を綴る。
誰かに伝えるためではなく、自分と向き合うために。
それが、私にとっての“書く”という行為である。
出来るならあなたが託す言葉にどんな祈りが込められているかをぜひ知りたい。




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