人間五十年、下天の内をくらぶれば
- ncu807
- 8月4日
- 読了時間: 3分
ふとした折に、大昔観た大河ドラマの一場面が、記憶の底から鮮やかに浮かび上がることがある。
それは、本能寺の変を描いた場面だった。炎に包まれる京の夜、命の灯火が尽きようとするその刹那、ひとり舞台に立つ武将が、静かに、そして凄絶に舞を舞っていた。
高橋英樹氏が演じた織田信長。その唇から発せられた一節が、なぜか今になって胸に深く突き刺さる。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。」
若い頃は、それを単なる歴史上の名台詞として、どこか距離のあるものとして聞いていた。
人生の無常を謳った言葉であることは理解していたつもりだったが、当時の私にとって、それはまだ「他人の言葉」に過ぎなかった。
だが、幾つかの季節を経て、自らの歩みを折り返す頃になると、その一節に宿る諦念や静かな覚悟が、まるで自分自身に向けられた問いのように響いてくる。
信長が語った「下天」とは、仏教の六欲天のうち、最も下層に位置する天界の名である。
その世界では、一昼夜が人間界の五十年に相当し、住人の寿命は五百年にも及ぶという。
人の一生は、その視座から見れば、わずか一日に過ぎない――それが「人間五十年、夢幻の如くなり」という言葉の本意なのだろう。
そう考えると、私の人生も、下天の一日における午後の時間帯に入ったのかもしれない。
いや、あるいは夕刻。空がいちばん美しく染まる、あの刹那の光の中にいるのかもしれない。
これまでの道のりを振り返れば、誇れるような善行は決して多くない。
むしろ、なぜもっと誠実に振る舞えなかったのか、なぜ大切な瞬間に背を向けてしまったのか――そんな後悔の記憶ばかりが、やけに鮮明に浮かび上がってくる。
人は歳を重ねるごとに、忘れたいことよりも、忘れられないことの方が増えていくものらしい。
夕暮れの雲のように、流れては形を変え、また浮かび上がる悔いのかけらたち。
それらと向き合いながら生きる時間が、今なのだと思う。
とはいえ、すべてが絶望というわけでもない。
信長が生きた戦国の世と異なり、現代に生きる私たちは、より長い寿命と、より自由な選択肢を持っている。
「人生百年時代」と呼ばれる今、私にもなお、下天の“もう一日”が与えられているとするならば。。。。
この先の人生を、派手な成功や称賛ではなく、静かで確かな歩みとして紡いでいきたい。
この一年を、その第一歩にしたいと思う。
地道に学びを重ね、久しく会っていない友に手紙をしたため、小さな暮らしの喜びを見つめ直す。
そんな何気ない日々の中に、自分なりの誠実さをひとつずつ積み上げていけたら、それでいい。
暮れゆく西の空に、かすかに輪郭を残す月が浮かんでいた。
満ち欠けを繰り返しながらも、確かにそこに在り続けるその姿が、妙に心に沁みる。
人生という夢幻を、もう少しだけ大切に味わってみたい。
そんなことを、ぼんやりと思う、今日この頃である。




コメント