伝えるという迷路
- ncu807
- 10月9日
- 読了時間: 3分
わかった?
わからない?
わかったならわかったといってよ。
わからないならわからないといわなければ、わかったかわからないかわからないじゃないの。
わかった?
そんな早口言葉がある。
まるで私たちのコミュニケーションの難しさを、ユーモラスに突いているようだ。
日本人は“察する文化”を美徳としてきた。
だが実際のところ、「察してほしい」と「伝えたい」は、いつもすれ違いの狭間にある。
それは恋愛でも仕事でも、Facebookのコメント欄でも変わらない。
日々の雑感をFacebookに綴っている。
ちょっとした気づきや出来事を書くだけなのだが、思いがけず反応をいただくことがある。
中には「ぜひ会いたい」と連絡をくださる方もいて、この方は本州からわざわざ札幌まで会いに来てくれた。
……驚き桃の木である。
せっかくのご縁。
おもてなしをしなければと、当日はレンタカーを用意し、送迎に走った。
朝から二人の経営者や友人を紹介し、昼食はホテルの高層階で和食を。
午後は三つの会社を案内し、社長同士での会話も盛り上がった。
「伝える」ことを通じて、新しい“つながり”が生まれた日だった。
そんな中、先日ある経営者交流会で知り合ったばかりの社長からメールが届いた。
「紹介してよ!紹介するって言ったでしょ!」
……確かに、そう言った。
だが、その言葉は足りていたのだろうか。
私の中では「時が来たら紹介しますね」というニュアンス。
しかし相手にとっては「今すぐ!」という意味だったらしい。
言葉の温度差。
これが人間関係の摩擦熱を生む。
短気な私には少しストレスでもあるが、同時に「自分の伝え方」を省みるきっかけにもなる。
「何かしてもらったら返す」
「返してもらえないとモヤモヤする」
そんな感情は誰の中にもある。
しかしそれが強すぎると、人間関係は氷のように冷たくなる。
昔「連想ゲーム」というテレビ番組があった。
言葉をつないでいくうちに、いつの間にか全く違う答えにたどり着く。
「伝言ゲーム」も同じだ。
人を介すほど、意味は変形していく。
行動には行動の意味があり、言葉には言葉の自由がある。
だからこそ、どこで誰に、何をどう伝えるかが問われる。
そしてその「ズレ」こそが、実は人間の深みをつくっているのかもしれない。
思えば、誤解された経験のない人などいない。
それでも誰かに伝えたいと思うのは、心のどこかで「わかり合いたい」という願いがあるからだ。
言葉足らずも、行き過ぎた気遣いも、すべて人間らしさの証だ。
だから、伝えることを恐れず、受け取ることに寛容でありたい。
たとえ噛み合わなくても、笑いながら「まあ、そんなこともある」と言える関係がいい。
今日もまた、誰かに伝えようと思う。
少し不器用な言葉でもいい。
その一言が、誰かの心に灯をともすかもしれないのだから。




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