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所有か解放か

  • 執筆者の写真: ncu807
    ncu807
  • 10月13日
  • 読了時間: 2分

私見である。


AI により、誰もが簡単に動画を作れるようになった。

映像生成AI「Sora」では、数秒のテキスト入力で映画のような映像が生成される。

画像AI「Midjourney」や「Stable Diffusion」では、誰もがアーティストのように美しい作品を作ることができる。

さらに音声合成や歌唱AIは、プロの声をも模倣し、まるで本人が歌っているかのような楽曲を生み出してしまう。


今、SNS には無数の「AI作品」が溢れている。

面白い動画、感動的な音楽、巧妙なパロディ。

それらが拡散されるたびに、著作権の議論が沸騰する。

「誰のものか」「どこまで許されるのか」「創作とは何か」。

創り手の労苦を他者に無断で使われることへの怒りは理解できる。

それは当然の感情であり、人間の尊厳に関わる問題でもある。


しかし歴史を振り返れば、所有によって利益を得る仕組みは、常に変化の波の中で崩壊と再構築を繰り返してきた。

印刷技術の登場で写本文化が終わり、インターネットの普及で音楽や映像の流通が変わった。

かつての「独占」は、必ず「共有」に置き換えられてきたのである。


敢えて誤解を恐れずに言うならば——

今、私たちは「守る」よりも「解放する」議論を始めるべき時に立っているのではないか。

AI は既存の産業構造を壊すかもしれない。

しかし同時に、それは創造の民主化でもある。

かつて「作ること」を許されなかった人々が、言葉一つで世界を形にできるようになった。

これは破壊ではなく、「創造の再分配」であるとも言える。


おそらく、この二年ほどで AI は生活様式そのものを変えるだろう。

仕事、教育、芸術、そして「学ぶ」という行為の意味さえも、書き換えてしまうかもしれない。

既得権にしがみつく者は、やがて力を失う。

一方で、力なき者は数と共感で抗おうとするだろう。

その構図は、歴史が何度も繰り返してきたものである。


私は抱えない。

所有に執着せず、流れの中に身を置きたい。

あるものを、いつでも手放す用意がある。

それが、AI 時代を生きる上での私の姿勢である。


創造は、もはや「持つこと」ではなく「動かすこと」である。

固定された価値よりも、循環する価値。

誰かが作り、誰かが受け取り、また誰かが次を生み出す。

そうした連鎖の中にこそ、新しい自由があるのではないか。


何を抱え、何を手放すかを改めて考えてみたい。


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